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モンスター化する総理大臣    [社会問題]

 
 
【前編】
 日本国憲法の第99条は、戦争の問題を扱う第9条に比べると地味な存在で、憲法論議で光が当てられることは少ない。「天皇または摂政および国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う」という文面を読むと、政治家や公務員に対する「心構え」「努力義務」を述べただけのようにも見える。

 しかし、実はこの条文こそ、日本国憲法が近代の「立憲主義」に基づく憲法であることを明示する、きわめて重要な鍵となるパーツである。
 立憲主義とは、端的に言えば、権力者の行動に「憲法」という制約を課すことで、特定の指導者が専制君主のように振る舞うことを防ぐ、政治的な工夫を意味する。憲法の条文に従い、これを遵守する義務を負うのは、まず最初に「権力を持つ側」であり、憲法に記された「諸々の自由」に関する条文は「権力を持つ側は、弱い立場の国民が持つこれらを侵してはなりません」という、権力者への警告である。

 こうした原則は、憲法の条文を変更する際にももちろん適用される。憲法変更に必要な国会発議は、あくまで「それを望む国民と望まない国民の両方の代理人」として、国会議員が行うものである。本来「憲法を尊重擁護せねばならない側」の首相や大臣が、主体的に「憲法の条文に不満があるから変えたい」と変更に向けて動くことは、第99条を踏みにじる憲法違反であるのと同時に、立憲主義の理念への無理解や挑戦を示すものでもある。

 安倍晋三首相は、二〇一七年五月三日に行われた憲法変更を求める民間の政治集会に「憲法を改正して二〇二〇年に施行することを目指す」とのビデオメッセージを寄せた。五月九日には、鶴保庸介沖縄北方相も閣議後の記者会見で「間尺に合わない憲法は改憲すべきだ」という、憲法の内容変更を主体的に求める発言を行った。

 こうした首相や大臣の行動は、国民の立憲主義に対する無理解に乗じた形で行われており、あたかも「権力を持つ側の自分たちにも、憲法を変えたいと主張する権利がある」かのように錯覚させるムードを、メディアの報道を通じて既成事実として創り出している。
 だが、憲法とは、条文だけで機能するものではない。立憲主義という運用の「OS」を欠いた憲法「アプリ」は、国民の権利や自由を守れない。その理由は、北朝鮮の憲法を見ればわかりやすい。
 北朝鮮の憲法にも、言論の自由や報道の自由、デモの自由などを謳った条文があるが、立憲主義の原理原則が守られない国家体制なので、絵に描いた餅でしかない。立憲主義の原理原則が守られない国の憲法は、逆に権力者の「やりたい放題」を助長する道具として機能する。

 安倍首相は、二〇一四年二月三日の衆院予算委員会で「憲法が権力を縛るという考え方は古い。今の憲法は、日本という国の形、理想と未来を語るものだ」と述べた。この答弁は、立憲主義という重要な問題についての首相の認識不足を示したのと同時に、彼が憲法を「施政方針演説」や「国威発揚の道具」であるかのように理解している事実をも物語っている。

 現職首相が、憲法第99条と立憲主義の根本理念を堂々と無視するという事態の危険性を、今の日本の報道各社は正しく国民に伝える責任を果たしているか。



【後編】
 安倍晋三首相と閣僚による、日本国憲法第99条(国務大臣や国会議員らの憲法尊重擁護義務)違反という問題は、「教育勅語」をめぐる安倍政権の動きにも見られる。

 敗戦から三年後の一九四八年六月十九日、衆議院の「教育勅語等排除に関する決議」と参議院の「教育勅語等の失効確認に関する決議」がそれぞれ議決され、教育勅語の教育的な指導性が事実上否定された。天皇が臣民(主君に従うしもべとしての国民)に下賜する形式の「勅語」は、象徴天皇制と主権在民を明記した日本国憲法にも合致しないもので、文化的・歴史的資料として読む分には問題はないが、学校教育の現場で「子どもが従う対象」として使うことは、憲法にも国会決議にも反する「二重のルール違反」となる。

 ところが、松野博一文科相は二〇一七年三月十四日、いくつかの条件を満たせば「教材として用いても問題ない」との見解を示し、三月三十一日には安倍内閣も「憲法に違反する形でなければ」教育勅語を教材として用いることを否定しないとの閣議決定を行った。
 教育勅語は、天皇の言葉という形式(実際にまとめたのは明治政府の高官)で記された道徳的な教えのすべてが、最終的に「天皇を中心とする国家体制への献身奉仕」に収斂される内容で、これをそのまま「憲法に違反しない形で教材として使用する」ためには、憲法の内容を変えて、象徴天皇制と主権在民を廃止しなくてはならなくなる。

 また、前記した衆参両院の決議は、一内閣の主観的な解釈に過ぎない閣議決定で無効化できるものではなく、その内容を完全に失効させるには、衆議院と参議院での「再議決」が必要となる。

 安倍政権と親密な日本会議の小堀桂一郎副会長は、雑誌『正論』二〇〇三年十一月号に寄稿した記事で、望ましいと思う「教育再建」の指針として、戦後の教育基本法廃止と、衆参両院での教育勅語排除・失効決議の取消宣言、教育勅語の復活を挙げていた。
 最初の目標は、第一次安倍政権が二〇〇六年十二月に行った教育基本法改正(愛国心教育の導入など)で実質的に達成され、次の目標である「教育勅語の教育現場への復活」も実現しつつある。

 二〇〇〇年代に入り、日本では「モンスターペアレント」「モンスタークレーマー」などの言葉が使われ始めた。立場上の優位にあぐらをかいた親や消費者が、教師や学校、店舗や企業などに対して、既存のルールや社会的慣例を無視した、自己中心的で横暴な要求を出し続ける現象を表現した和製英語である。
 国会の議席数における優位と、ジャーナリズムによる権力監視のゆるみに乗じて、憲法や立憲主義の理念を堂々と無視する態度をとる総理大臣や閣僚の言動は、過去の歴代内閣とは異質なものであり、既に「モンスター化」していると言えるかもしれない。

 このモンスターを育てているのは誰なのか。餌を与えているのは誰なのか。取り返しのつかない事態に陥ってから、自分たちは大変なモンスターを創り出してしまった、と後悔しないためには、改めて「憲法」とは何なのか、「立憲主義」とは何なのかを、国民が生活レベルの実感として理解し、権力者からそれを守るという強い覚悟を持つ必要があるように思う。


(初出・『神奈川新聞』2017年5月21日、22日)

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