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見失われつつある「歴史を学ぶ理由」    [社会問題]

 
 
書店の「歴史雑誌」売り場の変化

 この数年、書店の歴史雑誌売り場の光景が大きく様変わりしたように思える。
 そこには二種類の雑誌が並んでいる。一つは、過去の歴史をわかりやすく解説する雑誌。もう一つは、歴史解説の体裁をとりつつ、自国礼賛の政治思想を読者に植え付ける雑誌。
 一見すると、両者は同じような読者を対象としているようにも思えるが、そこには重要な違いがいくつか存在する。
 まず、前者は過去の歴史を価値中立的に捉え、最新の学説を交えながら事実認識を読者に提示するが、後者は違う。自国にまつわる過去の歴史について、あらゆる面で「自国の名誉」を高めることを目的とし、そのために有用であると判断すれば、「他国の名誉」を貶めることも厭わない。
 また、前者は過去の失敗についての批判や反省という視点を重視するが、後者は逆にそれらを「自虐」あるいは「他国の謀略」と位置づけ、自国にまつわる歴史には何の瑕疵も存在しないかのような「物語」を読者に提供する。
 書店の売り上げランキングを見ると、後者の「歴史解説の体裁をとりつつ、自国礼賛の政治思想を読者に植え付ける雑誌」は人気が上昇しており、これらが確固とした「読者のニーズ」に応える媒体であるのは間違いない。
 しかし、書店の歴史雑誌売り場において、後者の雑誌が前者の雑誌を凌駕していく状況は、この国の社会全体における「歴史」の価値判断基準を大きく揺るがすものだと言える。
 歴史解説の体裁をとりつつ、自国礼賛の政治思想を読者に植え付けるとは、言葉を換えれば「歴史研究の政治への従属」を意味し、過去の事実認識が現状の政治権力にとって都合のいい内容へと書き替えられる危険性を孕んでいるからである。


人が「歴史」を学ぶ理由とは何なのか

 そもそも人間は、なぜ「歴史」を学ぶのか。
 この問いには、様々な答えがあり得るが、筆者は近著『戦前回帰』(学研)の冒頭で、次のように書いた。
「人が歴史を学ぶ意義の一つは、過去と現在と未来が『途切れずに連続している』という『感覚』を、思考の底流に形作ることだと思います。現在目の前にある様々な問題は、いきなり完成した形で出現したのではなく、ほとんどの場合、少しずつ視野の中で拡大してきたはずですが、大抵は『はっきりわかるほど大きくなる』または『深刻化する』まで、その変化には気付かずに見過ごしてしまいます」
 過去の失敗や過ちを繰り返さないために、歴史を学ぶ、とはよく語られる言葉だが、実際には過去の人々も、失敗や過ちの道をそれと自覚しながら歩んでいたわけではない。
 後世の人間には明らかな失敗や過ちも、同時代の人間の目には見えにくく、従って「間違った道」を進んでいるとの自覚も生じにくい。その理由は、たとえ「間違った道」であっても、社会の変化がゆるやかであれば、日々の生活の延長として許容してしまい、不安や違和感を知覚しないためである。
 大抵の場合、もはや引き返すには手遅れである段階へと進行してしまうまで、自分たちが「間違った道」を歩いてきたことに気付かない。そして、道程にいくつも他の分岐路があったという事実を見落とし、その道しか存在しないという共通認識を社会が共有して、それがあたかも「歴史の必然」であるかのような現状追認の思考へと至る場合も少なくない。
 大型の客船や旅客機の乗客は「自分が今、大きく移動している」と自覚しにくいが、それは自分を取り巻く環境全体が一緒に移動しているためであり、常に窓の外に注意を凝らして以前と現在の風景の違いを確かめていれば、移動を知覚できる。
 それと同様、自分が「歴史」という連続した流れの中にいることを意識して、二年前、一年前、半年前と現在とでは、社会にどのような変化が生じているのか、それらの変化は他国と比較してどのようなものなのか、過去に同種の変化が社会に表れた時、最終的にどんな結末へと至ったか、という「歴史感覚」を常に磨いておく必要があるように思える。
 社会を構成する人々がそれを怠れば、漠然と「自分を取り巻く環境」と共に浮き草のように風下へと流されて、後世の人間から「あの時代の人々は、なぜ間違った道を進んだのか」と評されるような「歴史」を、再び繰り返すことになりかねない。
 知識や教養などの「情報(インフォメーション)」としての「歴史」にも、学問的あるいは実用的な価値は存在する。
 けれども、自分もまた生成途上の「歴史」を構成する一員であり、窓の外を通り過ぎる分岐路を横目に見ながら日々の生活を営んでいるという当事者の「感覚」を欠いていれば、どれほど大量のインフォメーションを記憶していても、過去の歴史を「道を誤らないための道しるべ」という意味での「情報(インテリジェンス)」として役立てることは困難だろう。
 過去の「歴史」を有用な「道を誤らないための道しるべ」として役立てるためには、事実の集合体としての複雑な多面体である「歴史」に、様々な角度から光を当て、何者にも支配されない自由な思考で評価・分析・検証する作業が必要となる。
 言い換えれば、歴史研究の政治への従属は、こうした自由な思考に手枷と足枷を嵌め、対象に光を当てる角度を「政治権力が承認した方向」だけに限定することを意味し、最終的には過去の「歴史」を有用な「道を誤らないための道しるべ」として役立てる道を閉ざすものだと言える。


「正しい歴史解釈」と「歴史家」の務め

 政治権力者が統一的な「正しい歴史解釈」を国民に指し示すような国は、ほぼ例外なく、国民の自由や人権よりも国家体制の存続と強化を優先する政策を、非民主的な手法で強権的に遂行している。
 それを考えると、現在の日本政府が外部の「有識者会議」などを遠隔操作のツールのように駆使しながら、統一的な「正しい歴史解釈」を認定および広報する動きについて、国民の自由や人権よりも国家体制の存続と強化を優先する、強権的な国家体制づくりの一環と見なす懸念も的外れとは言えない。
 そして、現在の日本の一部の新聞や雑誌は、自国礼賛の歴史認識を読者に植え付ける作業を「歴史戦」と名付け、自分が他国の「文化的侵略」から母国を守る戦士の一員であるかのような高揚感と共に、現在の政治権力者にとって都合のいい「正しい歴史解釈」を宣伝している。
 こうした動きが進行している時、職業として歴史を研究する「歴史家」の社会的な務めとは何だろうか。
 先に述べた通り、歴史研究に必要なのは「政治的要請に制約されない自由な思考」であって「政治指導者が指し示す正しい歴史解釈」ではない。政治権力者が歴史認識への介入を強める行為は、明らかに「自由な思考」を阻害するもので、本来なら歴史家が結束して拒絶・対抗・抵抗せねばならないはずである。
 研究者の世界では、そうした政治宣伝は歴史研究の裏付けを欠いているために「まともに論じるに値しない」あるいは「相手にすると学者としての沽券に関わる」と見なされているのかもしれない。しかし、専門家が放置・黙認すれば、一般の人々は「批判も否定もされないということは事実なのか」と思い、それを信じる人の数が徐々に増加していくことになる。
 職業人である前に「市民」であるとの考えに立てば、自分の住む社会で健全さが失われつつある状況を傍観せず、自分にできることをするのが「市民」の務めだという結論が成り立つ。歴史家もまた、社会の健全さを維持する責任を負う「市民」の一人だとするなら、歴史研究の政治への従属という目下の現象に、専門的見地から積極的に対抗していくべきだろう。


(初出・朝日新聞出版『一冊の本』2016年1月号)※一部修正しました。

(c)2016, Masahiro Yamazaki. All Rights Reserved.

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