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戦争を受け入れる「心の変化」   [社会問題]

 
 
「戦争しないための道」を見抜く難しさ

 第二次世界大戦の終結から昨年(2015年)までの70年間、日本は幸運にも、戦争や紛争の当事国にならずに済み、自衛隊員が実戦で「敵」を殺したり「敵」に殺されたりする事態も起きませんでした。
 しかし、昨年9月に国会で採決された安保法制により、日本は「集団的自衛権」の名目で、第三国の行う戦争や紛争に、当事国として関与することが可能になりました。採決に際しては、「日本の安全に関わる場合で、なおかつ他に手段がない場合に限る」等の条件が付記されましたが、実質的には「自衛隊の海外での実戦参加」を可能とするドアの施錠が、カチャリと音を立てて解かれたことになります。
 日本国憲法の第九条には「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」などの条文があります。もし仮に将来、自衛隊が「国際紛争を解決する手段」として、あるいは「国権の発動」として、政府の命令により日本以外の陸上や海、空で実戦に参加することになれば、この第九条の文言はただの空文と化してしまいます。
 こうした未来を望まない国民は、与党の強引な採決の手法や、国会での審議内容の不毛さ、憲法違反との学者の指摘を無視する態度、採決に伴う議事録の捏造などに抗議し、安保法制の廃案を要求したり、参議院での委員会採決自体が無効であるなどの主張を行っています。
 一方、安保法制に賛成する立場の国民は、自衛隊とアメリカ軍の連携をより緊密なものにすることで、日本を敵視する外国に対する「抑止力」が高まり、日本の安全は保たれるという、安倍晋三首相の国民向けの説明内容を大筋で支持する姿勢を示しています。
 安保法制に対する意見や立場の違いはあれど、今後も「平和な日本」であって欲しいと願う日本人は多いですが、どうすれば戦争を避けられるかという問題は、古来から「正解のない難問」であり、時代や地域を超えて通用する「唯一の答え」は見当たりません。
 隣接する国の片方が持つ軍事力の弱さが原因で戦争や紛争が起きた場合もあれば、逆に隣接する国同士が相手国に対する敵意と疑心暗鬼を募らせ、軍備増強をエスカレートした挙げ句に戦争や紛争が起きた場合もあります。将来の戦争を避けるために、何が最善策なのかは、後になって戦史や紛争史を分析すれば見えてくることもありますが、同時代に生きる人間がリアルタイムでそれを知ることはきわめて困難です。
 ただ、ある時代のある国の国民が、戦争を正当化するような価値判断や論理に身を委ねる態度をとれば、その国が戦争の当事者となる可能性は高まります。
 例えば「このまま何もしなければ、わが国は他国に大事なものを奪われる」、それゆえ「本意ではないが武力で立ち向かうしかない」といった論理は、戦争を正当化するためによく使われます。


「戦争を正当化する論理」が、社会に広がり始めていないか

 イギリスのアーサー・ポンソンビーという政治家は、1928年に刊行された著作『戦時の嘘』の中で、古今東西の権力者が新たな戦争を扇動したり、自国の行っている戦争を正当化する際に用いるプロパガンダ(政治宣伝)の手法を分析し、そこに共通する「論理」の構造を読み解いた上で、以下の10項目に整理しました。

 1. 「われわれは戦争をしたくない」
 2. 「しかし敵側が一方的に戦争を望んだ」
 3. 「敵の指導者は悪魔のような人間だ」
 4. 「われわれは領土や覇権のためではなく、偉大な使命のために戦う」
 5. 「われわれも誤って犠牲を出すことがある。だが敵はわざと残虐行為におよんでいる」
 6. 「敵は卑劣な兵器や戦略を用いている」
 7. 「われわれの受けた被害は小さく、敵に与えた被害は甚大」
 8. 「芸術家や知識人も正義の戦いを支持している」
 9. 「われわれの大義は神聖なものである」
 10. 「この正義に疑問を投げかける者は裏切り者である」
  (アンヌ・モレリ『戦争プロパガンダ10の法則』永田千奈訳 草思社 2002年)

 現在の日本には、先の戦争を当時の日本政府の呼称に倣って「大東亜戦争」と呼び、あれは正しい戦争であって侵略ではない、と主張する人が少なからずいます。しかし、当時の東條英機内閣が国民向けの説明で繰り返した「戦争正当化の論理」を見ると、ほぼ完全に上の10項目と一致しているようです。
 こうした典型的な「戦争正当化の論理」は、既に始まった戦争だけでなく、将来に起こる戦争を呼び込む、あるいは戦争の炎となって燃え上がる前の「火種」を、国の指導者が意図的にくすぶらせる時にもよく用いられます。
 油断していると、新聞やテレビなどが日々報じるニュースによって、こうした「論理」が心の中に少しずつ入り込み、政治指導者が掲げる戦争肯定の論理に国民が何の疑問も抱かなくなるという、今までに数え切れないほど世界中で繰り返された事例が、現代の日本でも繰り返される可能性があります。
 メディアに流れる情報に、上の10項目と一致するようなものは無いか。もしあるとすれば、その数が以前より増えていないか。政治権力を握る指導者やその支持勢力が、批判する人間を威圧して黙らせるために、こうした論理を堂々と使い始めてはいないか。
 同時代の人間が「戦争に至る道」を避けるためには、こうした論理に目を光らせ、社会のささいな変化も常にチェックしておくことが必要になります。


戦争を受け入れる心理的な「敷居」が下がるとき

 また、戦前の日本国民が、当時どんな政治思想を(表向き)共有していたのかを調べると、戦争へと向かう心理的な「敷居」の高さ・低さも、同時代の人間が「戦争に至る道」をそれと気付かずに進むかどうかを分ける要素であったように思われます。
 戦前の日本国内で支配的だった政治思想は、日本は「世界にまったく類を見ない(万邦無比)素晴らしい国」だというもので、その根拠として語られたのが「万世一系(古来より途切れずに家系が連なる)の天皇」を戴く「国体(国柄や国の形態)」でした。
 天皇は「神の子孫」であるのと同時に「現人神(あらひとがみ=人間の形態をとって降臨した神という意味)」という、絶対的に神聖不可侵の存在とされ、当時の学者や評論家は、競い合うように「天皇を戴く日本という国がどれほど素晴らしいのか」や「日本人が他国の人間よりもどんなに優れているか」といった本を書きました。
 そして、当時の文部省もこのような思想を子供にも教えるため、1937年5月に『国体の本義』という教本を大量に発行して、全国の学校に配布しました。
 1935年頃から本格的に始まった、日本の「国体」を日本国民がこぞって自賛する思想運動は、国体を明徴(特徴を明らかにすること)するという目的から「国体明徴運動」と呼ばれ、政治家や軍人、一般国民の価値観を実質的に支配する形となりました。
 これらの思想運動の経過と背景については、スペースの関係上、ここで詳しく記述できませんが、拙著『戦前回帰 「大日本病」の再発』(学研、2015年)で、当時の文献を多数引用しながら解説していますので、興味のある方はそちらをご覧下さい。


際限のない「自国褒め」がもたらした「戦争への道」

 本心では、こうした風潮に疑問を抱いた国民も少なからず存在したのかもしれません。しかし、当時の日本では「国体」思想という政府の掲げる価値観に従わない人間は「不忠(天皇に忠実でない)」「不敬(天皇への敬意を欠く)」「非国民(日本国民として認められない)」などの罵声を浴びせられ、厳しい糾弾の標的となりました。
 そして、天皇や日本という国を美化・礼賛する思想が、日本国内で際限なくエスカレートした結果、その「絶対的に素晴らしい存在」を守るためなら、国民は喜んで犠牲になろう、という風潮が、社会の底流で石垣のように築かれていきました。
 何かを褒める、という行為は、一見すると何の問題もない「善良な行い」であるかに思えます。特に、国民が自分の国や自分の社会を褒めることで「自国への誇りや愛着」を強めるという行為は、国民として「自然で正しい行い」であると見なされていました。
 けれども、特定の政治的対象(国の最高指導者、正しいとされる考え方)の価値を「際限なく高める」心理に歯止めがかからなくなると、それ以外のもの、例えば国民の自由や権利、生活、そして命の価値は、相対的に「際限なく軽くなる」ことになります。
 国の頂点に戴く「絶対的に神聖な存在」や、その存在と国民の関係を絶対的な理想と見なす「国体」の思想が、当時の日本国民にとって「疑問を抱いてはならない絶対的真理」となった時、戦争へと向かう道の手前にあったはずの心理的な「敷居」は、実質的に取り払われました。


なぜ昭和の日本軍指導部は「特攻」や「玉砕」を命令できたのか

 太平洋戦争の最中、日本軍が「特攻」や「玉砕」という、現代の価値観で見ると非人道的な戦法を多用したことは、よく知られています。
 日本の一部では、今なおこれらの戦法を「軍人として立派な最期だった」と肯定する人もいますが、特攻も玉砕も、兵士の生還を完全に度外視したいう意味で、同時代の他国の軍隊とも、明治および大正時代の日本軍とも、大きく異なる戦法でした。
 ドイツ空軍は、第二次世界大戦の末期(1945年4月)にただ一度だけ、戦闘機を敵の爆撃機に体当たりさせる戦法を試みましたが、想定よりはるかに小さい効果しかないことがわかると、こうした戦法をすぐに停止しました。
 言い換えれば、ドイツ軍は「軍事的な合理性」で体当たりという戦法の是非を評価しましたが、当時の日本軍には事実上、そうした合理的な評価基準はありませんでした。むしろ、戦いの中で兵士が「お国のために散華(死ぬことを言い換えた言葉)する」ことが目的化したような精神的な価値判断に基づいて、特攻が繰り返されました。
 明治・大正の日本軍も、他国の軍隊と同様、自国の軍人の命を軽視せず、最初から生還の可能性がゼロであるような作戦は行いませんでした。
 日露戦争の陸上からの旅順攻撃では、大勢の日本兵が突撃の過程で戦死しましたが、正面突撃と並行して近代的な攻城戦の戦術(坑道攻撃)も用いられており、自軍の損害が増大することを司令部は苦慮していました。
 また、ロシア海軍の激しい砲撃の下で行われた、海上からの旅順港閉塞作戦は、広瀬武夫少佐が戦死したことで有名な戦いですが、作戦方針は昭和の特攻とは正反対の、全乗組員の生還を前提としたものであり、広瀬少佐が戦死した原因も、行方不明となった部下の水兵を捜して(助けて生き延びさせようとして)戦場からの離脱が遅れたことが原因でした。
 1945年の敗戦までの昭和前期も、明治および大正時代も、憲法は同じ「大日本帝国憲法」であり、憲法の内容の違いが、こうした人命の価値判断における差異の原因ではありませんでした。では、何がどう違っていたのか。


「お国のために」の精神が、逆に自国を滅ぼした皮肉

 先に述べたように、1930年代の「国体明徴運動」で天皇や「国体」が絶対不可侵の存在として神聖化されると、それを守るために「軍人(および国民)が死ぬ」ことは、否定的な結果ではなく、むしろ「立派な行い」として肯定されます。
 そして、戦死した軍人を崇高な「神」として祀る靖国神社の存在は、国に殉じるという行為そのものを顕彰する役割を果たし、他国の軍隊のように「大勢の自国軍人を死なせた指揮官が、無能力ゆえに罷免される」こともほとんどありませんでした。
 玉砕の場合、太平洋戦争の開戦前(1941年1月)に陸軍の訓示として下達された『戦陣訓』の存在が大きな意味を持っていました。その内容は、当時の「国体」思想の延長にあるもので、「生きて捕虜となることは屈辱であり、死ねば罪過の汚名を免れる」から、戦闘中に絶望的な状況に陥っても、国や家族の名誉を守るために降伏するなと命じていました。
 これらは「日本軍人」だけに限定した話ではなく、当時の一般国民も同様の価値判断を共有していました。「お国のために命を捧げる」という考え方は、当時の「国体」思想に沿ったものであり、本当にそれらの行動が日本という国のためになっているのか、むしろ逆に日本という国にダメージを与える結果になってはいないか、などの冷静な客観的視点は、当時の日本では書くことも口にすることも許されませんでした。


さいごに

 国のため、という言葉は、聞く者の心に「重し」のようにのしかかる言葉です。心の弱い人は、その重さを支えきれず、心をそこに押さえつけられてしまいます。
 けれども、後になって歴史を振り返れば、ある時代に国の政治指導者が「これをすることが国のためになるのだ」と国民に教えたことが、実際にはその逆、つまり国を滅ぼす道であった場合も少なくありません。
 そんな過去を再び繰り返さないためには、一人一人の国民が独立した「心」を強く持ちながら、政治指導者やその支持者が好んで口にする「国」とは何を指しているのか、本当に自分の国にとってプラスになることは何なのかを、個人として常に考え続ける必要があるように思います。


(初出・集英社ネット媒体『imidas』2016年2月)※一部加筆修正しました。

(c)2016, Masahiro Yamazaki. All Rights Reserved.

 
 
 
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