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社会に氾濫する「反日」という言葉の暴力性 [社会問題]

 
 
三種類の使われ方をする「反日」

 安倍晋三首相に好意的な政治的スタンスをとる、日本国内の一部メディア(産経新聞など)において、彼らが「敵」と見なす相手を表現する言葉として「反日」という二文字がよく使われる。
 この言葉は、政治的価値観を共にする人々の間では、味方の結束を高める「符丁」として、あるいは仲間内で「攻撃すべき相手」を指し示すレーザーポインターのような形で用いられるが、その用法を注意深く見ると、おおむね次の三種類に分類できる。
 まず、韓国や中国が近現代の歴史問題を取り上げて、日本を政治的に攻撃する行為を指す「反日」政策という使い方。
 韓国や中国の政治権力者が、時の政権に対する国内の不満を逸らすため、日本との歴史問題を蒸し返し、怒りの矛先を日本に向けるという政策は、過去に何度も繰り返された手法ではある。ただし、日本がかつて韓国を併合し、植民地として支配した歴史的事実や、日本軍が満洲事変や日中戦争で中国領内への軍事侵攻を行って、大勢の中国人を死に至らしめた歴史的事実を踏まえれば、日本側がそうした事実を無視あるいは軽視する態度を示した時、韓国や中国が反発するのは当然だと言える。
 従って、歴史問題に関する韓国や中国の抗議を一概に「反日」、つまり「悪意による嫌がらせ」のように曲解する態度は、過去の一時期に自国が周辺国に対して行った行動への反省から目を背ける卑怯な態度でしかない。
 二番目は、そんな韓国や中国の「反日」政策に協力していると彼らが見なす、朝日新聞を攻撃する際の「反日」報道という使い方。
 この用法の背景にある考え方については、産経新聞社のオピニオン誌『正論』2014年10月号に掲載の「廃刊せよ! 消えぬ『反日』報道の大罪」という朝日新聞批判の鼎談記事(櫻井よしこ、門田隆将、阿比留瑠比)で、櫻井よしこが述べた次の言葉が簡潔に言い表している。
「日本の外交で反日的なところは中国と朝鮮半島です。この中国と朝鮮半島に反日の種を蒔いたのは朝日です。朝日新聞が本当に諸悪の根源になっています」(p.73)
 そして三つ目は、安倍晋三首相を、韓国と中国、朝日新聞などの「反日」的活動と対峙する「毅然とした国家指導者」として位置づけ、その安倍首相に従わない人間をひとまとめにして攻撃する際の「反日」勢力という使い方。
 さまざまな立場や政治思想を持つ、安倍首相の政策に批判的な人間を「敵である韓国、中国、朝日新聞の味方」と決めつけて同一視し、根拠のない憶測で「あいつは中国の手先だ」とのデマを流す時などに添えられる。


安倍晋三首相に逆らう者=「反日」

 先に挙げた「反日」という言葉の三種類の用法のうち、一つ目は「国家間の対立」の文脈で使われるもので、そこで言う「日」が日本という国を指すことは明らかだが、二つ目と三つ目の用法については、「反日」の「日」が何を指すかはいちいち説明されない。
 では、その言葉を使う人々は、「反日」の「日」をどのように理解しているのか。
 その問いへの答えを示唆するいくつかの言葉が『正論』2013年5月号に掲載された「総力ワイド 反日の懲りない面々に気をつけろ」という小特集のリード文に含まれている。
「三年三カ月にわたり国政を停滞させた民主党政権とは、いったい何だったのか。(中略)
 この政権のまわりに群がっていた左派勢力の辞書に『反省』の二文字はないようだ。彼らの一部は今もメディアなどを通じて反日的な発言を繰り返し、あるいは行政組織に深く潜り込んで亡国的な政策を進めている。保守の安倍晋三政権が発足し、期待通りの滑り出しをみせているからといって、油断は禁物だ」(p.200)
 民主党政権と、「その周りに群がっていた左派勢力」が「反日」的な日本人であり、それと果敢に戦って勝利した「保守の安倍晋三政権」が、本来あるべき姿の正常な日本人であるという。
 この小特集で「反日」の烙印を押されているのは、このほか「反原発派」や「フェミニスト」、そして「中国に好意や理解を示す政治家、財界人、言論人」などで、いずれも安倍首相の政策とは相容れない政治的立場をとっている点で共通している。
 しかし、特定の偏見を排して現実を見ればわかるように、安倍首相を批判する人間が必ずしも「左派」、つまり社会主義や共産主義の政治的スタンスをとっているわけではない。自由主義や個人主義と、社会主義や共産主義は、目指す社会の理想が異なる。
 また、日本の歴史上最大の惨事であった1945年8月の敗戦を二度と繰り返してはならない、という「愛国」的な思想から、安倍政権の戦前回帰的な諸政策を批判する人間も少なくない。
 自ら始めた博打的な大戦争の結果、甚大な人的損害を被って完敗した日本は、長い歴史の中で初めて外国軍に征服され、独立国の主権を一時的に他国に奪われた。
 その反省に立ち、制度的・構造的な問題点に目を向け、過去の負の歴史と真摯に向き合うことは、「愛国」的な態度のはずだが、戦前と戦中の国家体制を肯定的に評価する安倍首相側の立場から見れば、戦前と戦中の「負の歴史」を事実と見なす歴史認識は「反日」的な態度と理解される。


「反日」と併用される「自虐史観」

 産経新聞や『正論』の記事によく見られるように、過去の歴史に関する議論では、「反日」と共に「自虐史観」という四字熟語もよく使われる。用法は基本的に共通で、戦前と戦中の国家体制とそれを継承する政治思想を「取り戻すべき本来の日本の姿」であるとの暗黙の前提に立って語られる。
 この「自虐史観」というワードは、認めたくない歴史的事実を否認する上で、とても便利で都合がいい。ある事実に対して「それは自虐史観だ」と言えば、実際には何の立証もなされていないのに、あたかも提示された事実の信憑性が消えたかのように錯覚できる。自分で自分の目を塞いでいるだけなのに、事実がこの世から消失したかのように思いこめる。
「反日」という言葉もこれと同様で、ある人間を「反日」と決めつければ、何の立証もしないまま、対象を「日本の敵」として実質的に人格まで否定してしまえる。それは、戦時中の日本で多用された「非国民」という言葉と同じで、時の政治権力者や政治勢力から見た相対的な「敵」にすぎない相手を、国全体の「敵」であるかのように印象づける。
 ネット空間では、安倍首相に批判的な人間に対し「反日」というレッテルを貼る行動が盛んに行われているが、こうした攻撃は安倍首相への批判を少しずつ弱らせる効果を目的としている。それを行う人々(多くは匿名覆面)は、自らの態度を普遍的な「愛国」的立場からの振る舞いのように装うが、その実体は特定の政治権力者への奉仕であり、道義的な判断を下す決定権を勝手に独占した上でなされる、一方的な「国の敵という決めつけ」でしかない。
 実際には、道義的な判断を下す決定権を独占する権限など、彼らにはない。古今東西の歴史が教える通り、まやかしの「愛国」は、自分に従わない相手に対して何をしても許されるという「免罪符」として濫用されてきた。
 それに対抗するには、「反日」や「愛国」の定義を常に疑い、何が本当に「日本のため」になるのかという議論を厭わず、レッテルによる錯覚やまやかしの霧を根気強く打ち消していくしかない。


(初出・株式会社金曜日『週刊金曜日』2017年2月17日号)

(c)2017, Masahiro Yamazaki. All Rights Reserved.


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